会報こぼれ話

会報こぼれ話

戦前戦後の大阪府女専

斐文会報375号p.10掲載の井本蓉子さん(専20経)の手記全文です。
   
              平成24年8月28日

教育制度

学制発布 1872年(明治5年)小、中、大の学制が発布さる。
小 6歳より 上下各等4年、中 上下2等各3年、大学、師範、高等学校、専門学校
1875年 小学校2万5千、師範学校90
その後もたびたび改革あり。
明治時代早くに北野中、梅田女学校(大手前)、堺女学校、堺中があった。府下にも多く。1922年(人正11年)学制発布50周年、この午全国の高等学校が多く作られる。大阪でも中学や女学校が多く作られた。
義務教育は小学6年間、高等小学校が2年あった。ここまでは男女共学、中学、女学校以上はすべて男女別学。中学、女学校は5年、高等学校、専門学校は3年、大学も3年。小学校の先生は師範学校出。高等小学校卒は師範の一部で5年、中学女学校卒は師範の二部で2年で先生になった。
中学女学校の先生は高等師範学校卒か、大学卒のみ、高師は東京広島と東京奈良のみ。大学は9帝大と大阪商大などと私学が少し。高等学校の定員と帝大の定員は同数。他の大学はすべて予科があった。
医学部も薬学部も帝大以外はすべて専門学校。
専門学校が現在のと全然違うことを認識されたい。
大阪では女学校卒業後の高等教育機関は、奈良女高師、大阪府女専、女子医専、女子薬専、相愛、大谷、樟陰女専などのみ。女学校には高等科、研究科などがあった。
 

戦時中の学生生活

男子には以前から陸軍士官学校、海軍兵学校、経理学校、陸軍大学、海軍大学、航空大学などがあった。それが戦時になり、予科練というのができ、中学3年ぐらいから予科練に行く生徒が増えた。教育の力は大したものである。
大戦が始まって文系の学生は学徒出陣で召集された。雨の中、神宮外苑に集まった学徒出陣の光景は絶対に忘れられないものである。
身内にも町内にも、召集される方が次々に出られた。男子にかわって学問を頑張ろうと張り切った女子だが、工場に勤労動員された。女専でも上級生は工場の寮にはいって、作業の間に一日2時間ほど授業を受けられたらしい。私たちも夏休みなしで、平野の被服廠へ、冬には鳳のアルミエ場で飛行機の部品作りをした。学校に残った人も学校工場として作業をし、その合間に勉強した。
警報が鳴ると夜間でも、近くの病院診療所などへ配属された。けが人の治療の手伝い、入院患者を防空壕へ運んだりした。防空壕は道路にも各家の庭や床下にもあり、コンクリートの防火用水槽、防火頭巾などは必需品だった。貴重品や本などを防空壕にいれたり、田舎の知人宅に荷物を疎開させたりした。女専の貴重書は、阪急沿線の生徒が、帰宅時に風呂敷包みにして、宝塚の山田氏の別荘に運んだ。貴重書の疎開である。警戒警報、空襲警報はたびたび出たが、大阪に大きな空襲があったのは3月13~ 14日である。市内の大半が焼失した。帝塚山の校舎は空襲をまぬかれたが、すぐ近くまで焼夷弾で焼かれた。北畠の平林校長のお宅も焼けて、先生は校長室に畳を敷いて、奥様とお住まいになった。空襲で家を焼かれ、田舎に帰ったために学校に来られなくなった友のいたことは本当に悲しい。
食糧難はどんなに説明しても理解してもらえないと思う。北朝鮮のニュースを想像してもらいたい。お腹がすくと話題は食べ物の事ばかりになる。灯火管制で町は真っ暗。ガラス窓には黒いカーテン。都市ガスが出なくなり石炭、炭、薪をもやしたが、夜遅く帰ると薪が燃やせずお湯を沸かせない時もあった。星空の美しかったこと。
制服の準備ができず、一学期は女学校の制服だつたので、皆出身校がゎかった。教科書も卒業生に譲ってもらった。南側の運動場はすべて薩摩芋畑になり、松虫の乗馬クラブに肥料の馬糞をもらいに行ったこともある。
佐野先生は出征された。梅原先生の奥様がなくなられた。石山先生や境田先生は栄養失調で青い顔をしておられた。
アルミエ場は資材がなくなり、学校に帰って学校防備と勉強をした。そして沖縄陥落、原子爆弾投下で、遂に終戦となった。
 

終戦後の学校

夏休みのなかった私たちはその時はじめて夏休みとなった。8月末に進駐軍が来て、女子の高等教育が許されるのかがまず心配だったが、それは大丈夫だった。3年生は9月で卒業になり、私たちは1年半最上級生となった。戦後学校の始まり。
 

終戦後の世相

進駐軍による家の徴収が始まった。空襲で焼けて家が少ないのに、帝塚山北畠の豪邸が進駐軍高官の邸宅になり、浜寺公園に緑の屋根の宿舎が多くできた。御堂筋の日本生命のビルが進駐軍の司令部になった。そごう百貨店は進駐軍のPXとなった。いわゆるパンパンガールが目に付いた。
物資不足は戦時中よりひどかった。梅田や天王寺に大きな闇市ができた。梅田は今の阪神百貨店のあたり、天王寺は橋の上一帯。配給では足りないので闇市はおおはやり、戦災孤児が走り回り、家を焼かれた乳呑児を抱いた婦人も多くいた。婦人警官のなかった時代、進駐軍の要請で私たちは生徒科の松谷先生に呼ばれて、5時に梅田とか、天王寺とかに集まり、孤児たちの梅田弘済院への収容のお手伝いをした。比較的交通の便のよいところにいた私などは何度召集されたことか。「鐘の鳴る丘」の原点である。
「新円の切り替え」と言うのがあつて、一人一か月何円かを新円に交換して、それだけしか使えなかった。小銭は切り替えがなかったので、とても大切、映画などは何人かで何時もまとめて行った。物価は大体数年で百倍か三百倍になったと思う。
 

さあ勉強しよう

戦時中の不勉強を取り戻さねば。女専を離れておられた源先生のお講義も是非にとお願いして復活、関学の実方先生の講義が聞きたいと言えば来講願えるなど、私たちは燃えていた。佐野先生が復員され、高馬先生、東先生の二人は3階のピアノ室をそれぞれの部屋にして寝泊りされていた。平林先生は東天下茶屋の専13家佐野貴美子先生のお宅に間借りされた。梅原先生は5歳くらいの坊ちゃんを何時も連れてこられて、 20国の教室にはよく遊びに来てくれた。
共産党の徳田球一、志賀義男氏らの講演会にはこぞって出かけた。アメリカ映画の第一回日は絶対見逃さない。クリスマスには教会に行く。公民館では毎夜ダンスの講習会、ダンスホールもよく行った。
婦人参政権がはやばやと言いだされた。世の中の変革は急激だった。
軍国女子の指導に熱心だった米原先生が引退されて、高知に帰られた。かわりに来られた河合先生は楽しいダンスを教えてくださった。
演劇に熱心なクラスの後藤田さんが、阪大付属医専の有志と演劇活動をしようと提案され、面白そうだとわいわい集まり、「学友座」を立ち上げて、毎日ホールや朝日会館で本格的に公演をした。「白衣の人々」などは好評だったと思う。阪大のメンバーには手塚治君もおられた。そのころからステキな漫画を描いていたd後藤田さんは本格的な演劇人になり、NHKに入社した人も3人いる。
私たちは全く勉強不足でお恥ずかしい次第。ただ、平林,魚澄、石山、前田、境田という風格のある立派な先生方のお教えをうけ、学問とはいかなる態度でいかに勉強するのかという心だけは教えられたと思う。今でも人生は死ぬまで学び続けようと思っていられるのは、府女専のおかげである。
 

六三二四制教育

進駐軍の命令で昭和22年に新制中学ができた。すべて新設である。土地校舎先生、とても大変だったと思う。これまでの中学女学校は新制高校になった。共学のため、男子校と女子校を二つ合わせて2で割る方式で新制高校ができた。私学は中高一貫か、高校のみで、その時はまだ共学校はなかった。大混乱であった。
戦地から大勢の復員兵が帰還し、陸士海兵専門学校出が旧制高校や大学受験ができるようになり、これも大混乱。
昭和24年新制大学発足。4年制大学と2年制短期大学。専門学校はすべて4年制か2年制の大学になる。
大阪府立に浪速高等学校というのがあつた。大高は国立で浪高は府立だった。多分いまの阪大石橋校あたりか。浪高尋常科というのは小学校卒業後、受験してはいる中学で、今の灘中より|まるか|こ難関だった。浪高と合併するのなら不足はなかったと思うが、大高と浪高はいち早く阪大に吸収された。阪大に文系がなかったからである。府女専は単独で大阪女子大学となることに決まった。府女専は楽に4年制になれたが、他の私学などは随分苦労されたらしい。帝大出の先生が何人おられるかなどが問題になったらしい。府立の工業や農業専門学校のいくつかが合併して府立浪速大学となり、その後大阪府立大学となる。全く当時では府大との合併など想像もできなかった。
 

戦後の世相

昭和20年代は日本人は貧しかった。お金があったのはごく一部の人たち。26年頃4階建ての団地ができた。皇太子ご成婚と新幹線開通と東京オリンッピックで、34年頃から一気に高度成長、家電製品が出回った。
現代と最大の差のあるのは電話。戦前は一般家庭にあまり普及しておらず、明治大正ころは電報がよく使われた。交換手が出て、番号を告げると繋いでくれた。戦後は回復が遅れて随分不便、東京へは朝申し込めば夕方開通、特急で料金を3倍くらい出せば3時間くらいで繋がった。枚方なら電車で行ったほうが早かった。全くいまの携帯の発達はただただ驚くばかり。
交通機関も戦前は大阪市内は市電が主流で、今の地下鉄と同じくらいに走っていた。バスは民営の青バスと市営の自バスがあった。タクシーは円タクと言って、一円で今の三千円分くらい走ったと思う。昭和8年に梅田と心斎橋間の地下鉄が開通、間もなく難波まで伸び、戦時中に天王寺まで。その後は戦後まで長らくそのままだった。戦後は徐々に四つ橋線、谷町線などが開通した。
 
大正13年大阪府女専が開校、当時皇室、皇族、華族の子弟しか学べなかった女子学習院から、滝村、平林両先生をお迎えした(平林先生は男子学習院の教授も兼ねておられた)ということは、大阪府が如何に大きな期待をもって臨んだかの証しであろう。全国の高等学校などから優秀な先生方が教授として来校された。平林先生のお力らしい。中等教員無試験検定については、文部省の役人が成績の優秀さに驚かれたという。家政理学科のための研究室、実験室は充実していて、理系の免許がでた女専は本校が初めてという。授業料は年に66円、年間諸費用あわせて240円ほど、女高師出の初任給が70円で、是非行きたいと思ったのも覚えている。昭和24年の大阪女子大の授業料は12000円となっているので、この間の物価上昇は200倍近い。
新制大学発足当時から、女子大の存在は常に問われていた。特徴を出すべく先生方は如何にご苦労なさったか。当時6校あった公立女子大はいま2校のみ、これも時の流れと申すべきか。大阪府大が総合大学として発展するのならまだしも、誠に残念な現状である。
 
井本 蓉子 記