会報こぼれ話

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斐文会講座「大阪府女子専門学校・大阪女子大学と日本の女子教育」(木村涼子 大阪大学教授)を聴講して

斐文会報375号p.11・12に関連記事

2025年6月29日の斐文会講座を聴講後、秋庭裕先生からいただいた文章です。

秋庭裕 元 大阪女子大学人間関係学科勤務(大阪公立大学名誉教授)

 梅雨が早くも開けてしまった6月29日、斐文会総会後の講座に参加させてもらいました。
 木村さん(と気安く呼ばせていただきます)とは同時期に大阪女子大学人間関係学科で同僚でした。木村さんは教育学、私は社会学。廊下をはさんで向かいあった研究室で、木村さんが阪大に戻る(私たちはすぐに大仙を引き払わねばならなくなる)まで10年をともに過ごしました。
 今回、木村さんにお会いできる懐かしさに釣られ斐文会講座に参加しましたが、お話をうかがって、あまり知ることのなかった府女専と女子大の特質とその連続性を知るとともに、母校を「喪失した」同窓会である斐文会が、今なお、なぜ非常にアクティブであるのか、その「秘密」まで垣間見る思いもしました。そんな次第で、この駄文を寄稿してみようと思い立った次第です。(本稿では出典は明記してありませんが、ほとんどのデータは講座での木村さんの配布資料に拠っています。)
 門外漢の私が、今回木村さんのお話しで得たもっとも驚きの発見は、戦前の大阪府女子専門学校と戦後発足した大阪女子大学の連続性、つまりDNAは連綿と受け継がれたという指摘である。
 そして、そのDNAは、木村さんも私も在職した世紀の変わり目をはさんだ10年間あたりまで、つまり、大阪女子大が消滅する最後まで受け継がれていたのであって、これには実感が伴う。
 では、その連続性=伝統とは何なのかという詳細は、木村さんの論文や著作に委ねるが、講座でのお話から大胆に要約させてもらえば、以下のようになると思う。
 1924年の設置開学が、一市民である山田市郎兵衛氏の寄付によることは、府女専のエートス(精神性)にある程度以上影響したのではないかと、冒頭木村さんの指摘があった。
 成功した篤志家の大阪商人が、女子教育の必要性を鑑み寄付を申し出たという点に、大正末のこの時代の「大大阪」の矜恃が感得できるかもしれない。大阪「府立」であっても、単なる官立でなく、この時代の空気の中で醸成されていた、女子高等教育機関設置を求める「世論」に応えるように、大阪府女子専門学校は開校したのであった。
 何度か「この時代」と記した、府女専が開校した大正末から昭和初年にかけて、大阪はしばしば東京をも凌駕する「大大阪」として光あふれるモダニズム都市であった。御堂筋が今日の姿に大拡幅され、次いで日本初の公営地下鉄も開通し、キタもミナミも百貨店が競うように都市的ライフスタイルへ人々を強く誘った。「この時代」の空気感を想像しながら、今一度、府女専の誕生に思いを馳せることは意義あることでないかと思う。(蛇足だが、やはり「この時代」に開学した大阪市大前身の大阪商大開学が1928年であることから、やはり府女専の先駆性を再認識する。)
 さて、その府女専の教育の特色であるが、非常に興味深いのは、良妻賢母主義ではなかったという点である。
 旧制中学を祖とする私が出身の北関東の県立高校は今もなお男子校であるのだが、そのモットーは「質実剛健」であったし、他県の少なからぬ数の伝統校もこの質実剛健を掲げたところが多い。同様に、女子教育の「定番」が「良妻賢母」に根差す伝統校は枚挙にいとまないと思う。
 そんなわけで、戦前において女子教育が良妻賢母主義に傾きがちだった趨勢にあって、府女専は、女性を家庭役割に閉じ込めることのないロールモデルを提案していたという点が、何より痛快だし、今日から振り返っても貴重でありまた重要であると、木村さんの話を聞きながら強く感じた。
 1924年の開校であるから、この後、国を挙げて軍国主義に深く傾斜し戦時色をぐんぐん濃くする時代にありながら、府女専は明示的にリベラルの旗印を掲げたのではないにせよ、その教育はかなり「民主的」なエートスを帯びていたことも、木村さんの指摘によって知りえた重要点である。
 そして、その民主的なエートスは、長らく校長・学長であった平林治徳氏に淵源するのではないかというのも、やはり木村さんも指摘するところであった。
 一例であるが、当時の「女子は男子より先天的に劣っているという通念」に対し、平林校長は「飛んでもない間違い」だと断じ、両性は「松と柳」のように相補い合うべしと述べたという。平林の言辞自体には、時代的な制約はあるにせよ、中身的には充分現代性を有すると思われる。なお、平林は戦前に23年間校長を務め、戦後は10年間学長の任にあったから、女専・女子大はまさに彼の薫陶によって育まれたということができるだろう。
 この府女専時代について、木村さんが2014年から3年がかりで行った調査に基づいていくらか紹介してみたい。木村さんは、府女専卒業生に対し、2014年時点で88歳以上(!)の方50人近くと直接コンタクトをとり、約20人の方(!)に詳細なインタビューを実施している。
 私も、この手のインタビュー調査を行なってきたので分かるが、この調査は、調査者の手間と労力も相当必要であったろうと想像する。しかし、何より一番驚くのは、話者の卒業生の皆さんの積極性である。どうしたら、このような気力体力も要る面倒に喜んでお付き合いいただけるのか、まずこの点が驚異であるのだが、このあたりについてはもう少し先で考察させてもらうことにする。
 以下では、講座で配布された資料を引用しながら考えよう。引用は12期から20期の卒業生の方々の貴重なお話の一部である。
 「女学校に比べたらすごく自由な雰囲気だなと思いました。阿倍野は良妻賢母を強調していましたけれども、女専は良妻賢母的な教育をしようということは、全然なかったと思います。そこがすごく違いました。女専に入って、本当に何かすごく自由な感じになって、すごくみんな伸び伸びしていました」(家)。この言葉は、すでに指摘した良妻賢母をロールモデルとしない教育の雰囲気をよく伝えている。では、その「自由な感じ」の教育はどこを目指していたのだろうか。
 「女専では女学校でやったような裁縫や調理などはしない。家政理学科も、もっと理屈のほうだったと思うのね。国文科は一切しませんよ。家政的なことは、全然なし。だから、専門的なお勉強だけ」(国)。この歯切れ良い「家政的なことは一切なく、専門的な勉強だけ」という明言は、府女専が時代的な制約の中にありながら、まさにリベラルアーツを志向していたことを伝えていると思う。ここで「専門的な勉強」とは、Generalな原理を探求する姿勢の謂であるはずだ。
 したがって、「家政理学科で、わたし、家事大嫌いですから、家政が付いているのは気に食わなかったけれども、しょうがなしに行った(笑)。他に理学を学べる学校なかったですからね」(家)という言は、「家政理学という科目は全国にひとつ、大阪の府女専しかなかったのです。家政理学ですけれども、お裁縫や洗い張りなどはありません。だから家庭科、その時分は家事科と言いましたが、家事科の先生は府女専の家政理学の卒業生では役に立たないと言われた(笑)」ことと重なっている。
 約言すれば、大阪府女子専門学校でありながら、理系にかなり重心を置いたリベラルアーツ志向の教育が「この時代」において存在したことの意義は大きいだろう。
 そして、忘れてならないのは、文系ことに国文・英文などの教育研究の伝統の厚みとその蓄積は、まさに府女専ならびに女子大のレガシーそのものであるかもしれない。しかしこのあたりについて、私はコメントできる立場にないので、以下簡略に、木村さんの調査から引用して、その特徴を紹介するに留める。
 「源氏は面白かった。平林先生でしたね。奈良の女高師などだと、古典は抄本を読むらしいのですが、大阪女専の特徴は、源氏でも有朋堂の『源氏物語』四冊全部をボンと出されます。万葉だったら分厚いのをボン。源氏にしても万葉にしても、抄本という一部抜いたものでなくて全部渡すということは、どの先生、どれもそうでした」(国)ということであったという。
 このような厳密な原典主義は、アカデミズムの王道のような姿勢であり、府女専では学生に対しても斯界の第一線の研究レベルに肉薄できるような能力を我がものとすることが期待されたことが分かると思う。
 要約すれば、府女専において、「あの時代」にあって、理系文系のバランスがとれた、リベラルでアカデミックな研究と教育が志向されていたと評すれば、これは褒めすぎになってしまうだろうか。
 さて、ここまで紹介した講座での木村さんのお話を、私も知る「女子大最後の日々」に重ねてみると、府女専のDNAが80年の長きにわたって受け継がれていたことが実感できる。
 先述したが、木村さんと私は、府大との統合まで10年ほどをともに大仙で過ごした。私たちは、はからずも女子大に勤務した最後の教員に連なったが、今も当時を思い出すと「多幸感」に包まれると二人ともに感想が一致する。
 この「多幸感」という言葉ほど、大阪女子大でのキャンパスライフを一語で要約できるキイワードは、他に存在しないように感じる次第である。
 そのような多幸感をもたらす、様々な要素を分析的に網羅して一つずつ取り出すことは私にはできないが、必須不可欠な一つの要素として、先述したような府女専の伝統が伏流水のように絶えることなく流れ、由緒ある酒蔵が馥郁たる銘酒を育むのに似た、そういう醸成が、大阪府女子専門学校と大阪女子大学において成し遂げられていたと考えることができる。
 そして、そのような達成は、それをもたらした様々な要素の間の微妙な、ときに意図や人知を超えた妙なるバランスによって産み出される、一朝一夕では得ることのできない、僥倖のような性質を帯びていたと思う。
 失われたものが、美しく思えるのは、世の常のような気もするが、私の中の、大阪女子大学は、そのような位相にある。
 最後に、斐文会の「将来」について、いささか勝手で恐縮であるが、私の展望を述べさせていただくこう。
 6月総会において、斐文会には新入会員が存在せず、また若手会員も少ないことが、「明るくない」話題として取り上げられたというが、私は、会の将来を悲観するのは時期尚早であると思う。以下、簡潔に説明してみたい(6月総会資料参照、2025年3月現在のデータ)。
 斐文会には、実質(活動中)会員3,551名が存在するが、もっとも厚いのは、75歳から84歳の層である(930名)。そして、55歳以上の会員合計が、全体の9割を越えるという特徴がある。
 つまり、斐文会は、高齢者中心である。この特徴について、会員の皆さんは、どちらかといえば「否定的」にとらえているのではないかと思うが、じつは逆であることを指摘したい。
 なぜなら、斐文会という同窓会活動の積極参加者は、多くが中高年に達した以降に活動が活発化するわけで(理由は後述)、今まだ積極参加者が少ない若年層(今年40歳になる層が最若手)に、将来の積極参加を期待することができるのである。
 大胆にもっとも楽観的な見通しを述べれば、最若手の40歳代の層が80歳代になるまで、つまり、あと50年近く(!)、斐文会は持続可能性があるかもしれない。50年という数字はいささか誇張が過ぎるにしても、明日や明後日に、活動的な斐文会会員が払底することは絶対に生じないであろう。以下、そのロジックとメカニズムを概説する。
 同窓会活動について参照できそうな研究として、「戦友会」研究が思い浮かぶ。詳論しないが、戦友会は、戦後すぐに結成され、活動が活発化したのではなく、戦後ある程度時間をおいて、元青年であった参加者が中年期に達し結成され、活発化したことが知られている。
 その名称から、実際に共に死線をかいくぐった「戦友」が、戦後その強烈な共有体験に基づき再結成したというイメージが持たれ勝ちだが、じつは、戦友会はレトロスペクティブ(回顧的)に創造されたのであり、実際に戦地で旧知だった場合はそう多くないという。戦地での直接対面や接触経験は、必ずしも「戦友」の要件ではない。
 さすがに戦後80年を経過した今日では、戦友会の維持も困難になってきたようだが、ここまでその命脈は非常に永く保たれたということができるだろう。
 ここでは、なぜある程度時間をおいてから、戦友会が結成されるのかという点に着目したい。その理由は、青年たちが中年期に達し生活の安定と安寧を得て、青年期の強烈な世代体験への回帰を希求し、またかつて所属した枠組みある集団で共有した「かけがえのない」時間経験が、戦友会というリユニオンをもたらしたと考えられる。
 上記の事情は、斐文会にも当てはまるのではないだろうか。斐文会おいて、会員である女性たちは、多くは結婚などライフスタイルの大きな変化の後、生活の安定に達する中年期以降、活動に邁進できる環境が整うのだと考えられる。したがって、斐文会は今後新規会員のリクルートのターゲットに50歳代くらいに達する層へ意識して強く働きかけることが有効ではないだろうか。
 拙文の最後に斐文会の会員組織率についても付言したい。卒業生12,931名中3,551名が実質会員であり、他に比較するデータを持たないが、大雑把にいってこの3割を網羅するような組織率は、この手の同窓会活動としては出色であると思う。
 高い組織率は何を物語っているのだろうか。約言すれば、女専・女子大で過ごした学生時代の充実度や幸福度をストレートに反映したのが、この数字であると考えられると思う。
 ここで思い出したのは、京都の大学で社会学を講じる後輩から聞いた話である。彼が先年指導した女子学生が、ボート部OBについて執筆した卒業論文が、とても興味深かったと話していた。
 彼女によれば、競技ボートは高価で部費では賄いきれず、通例OBに拠っているが、OBによっては驚くほどの寄付を寄せる方もいるのだという。そして、寄付金額は、OBの年齢や職業や推定される経済状態との相関は見出せなかったという。
 彼女は、ボート部マネージャーとして挺身したのであったが、その間知り得たデータを用いて見出したのは、各OBの在学時現役ボート部員として活動した当時の、競技会などで残した成績や入賞歴が、卒業し社会人となって以降の寄付金額と鮮やかな相関関係を示していることだという。
 つまり、端的には大会での好成績という現役ボート部員としての活動の、その達成感や充実感、また幸福感こそが、卒業後社会人となった後の人生において、青年期を過ごしたボート部への已むことのない貢献や献身を持続させていることが見出されたのであった。
 いささか突飛な例を引き合いに出しかもしれないが、なぜ斐文会が、母校を失った今もなお高い組織率としっかりとした活動を持続できているのか、その最大の「秘密」は、やはり卒業生たちが帝塚山と大仙で過ごした「幸福な」学生生活の中にこそ存するのだと思う。
 仏教で教えを継承することを「相承」というが、甕から甕へ中味を大事に灌ぎ渡すことがその原義であるという。
 大阪女子大学は無くなってしまっても、そのDNAが相承されていくことを祈念しています。

2025年7月9日 炎暑の日に

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